首都高,地下化,再開発
(画像=kkb3/Shutterstock.com)

三井不動産はこのほど、東京・日本橋で進めてきた「日本橋再生計画」の第3ステージについて発表しました。三井不動産では、2004年のCOREDO日本橋のオープンを皮切りに、「残しながら、蘇らせながら、創っていく」を開発のコンセプトとして官民地域が一体となった「日本橋再生計画」を進めてきました。

三井不動産が公表している完成イメージ
(画像=三井不動産が公表している完成イメージ)
現在の日本橋
現在の日本橋(画像=PIXTA)

開発計画の第3ステージでは、日本橋川沿いを中心に、商業施設や広場、オフィスなどの開発を進めるそうです。この開発計画と首都高速道路の地下化が実現すると、川幅を含めて幅約100メートル、長さ約1,200メートルに及ぶ広大な親水空間が誕生し、これまで首都高の下に隠れていた日本橋が再び青空の下へとその姿を現すことになりそうです。

日本橋の誕生は徳川幕府とともに

日本橋の歴史は古く、その誕生は1603(慶長8)年までさかのぼります。同年に江戸幕府を開いた徳川家康によって、全国の道路網の整備の一環として、初代となる「日本橋」が架けられました。翌1604年には幕府が日本橋を国内里程の現標と定め、日本橋は五街道の起点となりました。日本の道路の起点である「道路原標」は今でも日本橋の中心に埋め込まれて、実際に現地で目にすることもできます。

幕府が進めた江戸の都市開発では日本橋を中心に堀や道が造成され、江戸城の周囲に諸大名や旗本の屋敷、寺社、商人や職人の住む町が誕生しました。こうして、日本橋は江戸でも有数のにぎわいを見せる場所となります。日本橋は浮世絵の題材にもなり、葛飾北斎が「富嶽三十六景」のなかで扱ったほか、歌川広重も名所江戸百景で「日本橋江戸ばし」を描いています。

時代は流れ、1911(明治44)年に、現在の石造りの二重アーチの日本橋が架けられました。アーチ橋はその後、国の重要文化財に指定されています。橋の銘板の揮ごう(毛筆で文字や絵をかくこと)は江戸幕府最後の将軍である徳川慶喜によるもの。関東大震災や東京大空襲などの災禍を乗り越えた日本橋ですが、東京五輪の開催を翌年に控えた1963(昭和38)年に橋の上に首都高速道路が開通し、青空と別れを告げることになります。

日本橋を空の下に

首都高によって上空を覆われてしまった日本橋については、はやくから民間レベルで高架橋の撤去を求める声が出ていたようですが、21世紀に入ると国レベルでも景観改善を検討する動きが出てきました。

2001年に当時の扇国土交通相が「首都高の高架に覆われた日本橋の景観を一新する」との考えを表明し、有識者による委員会が設置されました。とりまとめられた提言では、日本橋地区における首都高の再構築について、一体整備も含めた複数の案について検討を進めることを求め、一体整備については大規模開発となるため官民が協力し、民間の活力も導入するよう勧めています。

2005年には当時の小泉首相が4人の有識者を招き、日本橋の上空に空を取り戻すことについて検討を依頼しました。「日本橋川に空を取り戻す会」の提言では、首都高の地下化が盛り込まれました。ただ、首都高の移設に際しては、4,000億~5,000億円の費用が掛かるとの試算が示され、巨額な費用の負担先が問題ともなりました。

それでも2012年の「首都高速の再生に関する有識者会議」では老朽化した首都高について高架橋を撤去して地下化などを含めた再生を目指すよう提言があり、2016年には日本橋川沿いの3地区が国家戦略特区の都市再生プロジェクトに追加されました。

そして2018年、国土交通省などによる検討会は、江戸橋ジャンクションから神田橋ジャンクションの間の約1.2キロについて地下化するルート案を決めました。着工は2020年の東京五輪以降で、完成まで20年程度かかる見通しだといいます。

日本橋川の周囲に飲食店や宿泊施設、公園などが並ぶ親水空間が生まれ、青空の下に再び日本橋が現れる――。日本を代表する新たな観光名所の誕生につながるかもしれない日本橋地区での開発に注目です。

文・J PRIME編集部

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